「日本をもっと安全にする」。そのために、命を守る重要な情報の配信を国内最速レベルで実現しているのがITセキュリティベンチャー、ゲヒルン株式会社です。
2010年、突然登場したTwitter(現X)の防災情報アカウント「特務機関NERV(ネルフ)」。これを運営するゲヒルン株式会社は、2019年に「特務機関NERV防災アプリ(以下、NERV防災アプリ)」をリリースしました。現在、アプリのダウンロード数は744万(2025年8月時点)を超え、防災情報を届ける社会インフラへと成長しています。
この背景にあったのは、「人に寄り添うIT」という考え方です。災害発生時に最適な情報を届けるために、どのような試みが行われているのでしょうか? ゲヒルン株式会社の代表取締役・石森大貴さんと専務取締役・糠谷崇志さんにお話を伺いました。
情報だけでは人の命を救うことができない。重要なのは「判断」
防災情報アカウント「特務機関NERV」は、石森さんの個人プロジェクトとして始まったそうですね。
最初は、趣味のアカウントによる「遊び」だったんです。当時、普及し始めたスマートフォンだと外ではテレビが見られなかったので、Twitter(現X)に手動で防災気象情報を配信して、外出先でも確認できるようにしたのがはじまりでした。
石森大貴(いしもり・だいき)。ゲヒルン株式会社 代表取締役。宮城県石巻市出身。10歳からプログラミングを始め、12歳でレンタルサーバーサービスを開始。2010年7月にゲヒルンを設立。@UN_NERVで防災情報を発信。2019年にNERV防災アプリをリリース。一般社団法人セキュリティ・キャンプ協議会 理事
でも、2011年3月11日の東日本大震災を経験して、人の命に関わる情報だからこそ、更新が止まったり誤った内容を伝えたりしてはいけないと気がついた。それで、情報発信が本格的になっていったんです。
当初は、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン(通称・エヴァ)』の作中で脅威となる「使徒」に立ち向かう組織「特務機関 NERV」をモチーフに、現実の台風や地震を使徒になぞらえてツイートするという、エヴァファンならではの発想から生まれた趣味アカウントだった。
東日本大震災時には同作に登場する、日本全土から電力を集める「ヤシマ作戦」として節電行動を呼びかけ認知を拡大
そこで、bot(一定のタスクを自動で行うプログラム)を使った自動化や画像付きでの情報発信で、正確な情報を迅速にわかりやすく届けることに取り組み始めました。
糠谷崇志(ぬかや・たかし)。ゲヒルン株式会社 専務取締役。中学1年のとき、現ゲヒルン代表の石森さんが提供していた無料レンタルサーバーサービスを契約したことがきっかけで石森さんと意気投合。ウェブデザイン、サービスデザインのUI/UXを一手に引き受け、ゲヒルンのデザインの礎を築く
きっかけは東日本大震災ということですが、どんな経験をされたのですか?
地元の宮城県石巻市に住む伯母が、大津波で亡くなってしまって。そのとき、「情報だけでは人の命を救えない」、だけど「もっと早く情報を伝えられれば、結果が変わっていたかもしれない」という相反する2つの気持ちがありました。
公的機関が発信する情報には誤差や誤り、技術的な限界があって、必ずしも正確とは限らないと知ったからです。そのため、避難の判断を誤ることもあります。
実際、宮城県では最初に6メートルの大津波警報が出ていて、伯母の職場の屋上はその高さを超えていました。だから、予報通りなら逃げ切れるはずだった。でも、津波到達時には警報が10メートル以上に更新され、津波にのみ込まれてしまったんです。
そのように情報がいつでも正しいわけでもないし、情報だけで正しい判断ができるわけでもない。「情報」はあくまでも判断の材料に過ぎず、命を救うのは自分自身の「判断」です。
このことを理解していないと、避難指示や避難所の案内に従うだけになりがちで、情報が正しくなければ命を落とすこともありえます。
だからこそ、僕たちは情報が常に正しいわけではないことを伝えつつ、人が自分に必要な情報を受け取り、迅速に判断を下せるように、「NERV防災アプリ」を開発しました。
ゲヒルン社内には、エヴァを想起させる備品(上)も。名称や意匠の使用については同作品の著作権を管理する制作会社・カラーから許諾を得ている。エヴァ30周年の際には、同社と共同で「特務機関NERV指定防災備蓄品計画」(下)を企画した
防災データを扱うことの難しさ
災害時には、情報を自分で読み取り判断することが大切なんですね。
「NERV防災アプリ」では、災害情報をどのように取得しているのでしょうか?
「NERV防災アプリ」は利用者の現在地や登録地点に基づいた防災気象情報を配信するサービスなので、そのために気象庁や国土交通省、総務省などの各省庁と直接回線を結んで元データを入手しています。
でも、そのデータは形式や品質などの部分で課題が多く、そのまま機械的に処理すると大抵うまくいかないんです。
だから、各省庁と調整して活用しやすい形にしてもらったり、僕らエンジニアが元データの間違いを見つけたら、「仕様ですか、不具合ですか」と確認して、必要なら修正してもらったりすることもあります。
また、情報処理に必要な元データが一部欠けていても、システム全体が止まらないように設計しています。僕らはITの特性を踏まえたうえで、「入手したデータが常に完璧とは限らない」という前提のもと、開発を進めているんです。
防災情報を正確に届けるためには、人が介在して元データを適切に処理することが不可欠なんですね。
ほかにも、ユーザーに届けられる情報にするために、別々の省庁から集めた元データを整理してひとつにしなければいけないケースもあるんですね。
たとえば、河川コード(個別の河川を特定するための番号)は省庁ごとにバラバラなので、そのままでは正しく処理できません。そこで僕たちがすべてを統合した「統一河川コード」をつくり、各省庁のデータを利活用できるようにしています。
元データを開いてみて、「え、こんなに大変なの?」と気づいて、「じゃあ、やるしかないよね」と対応することが多くて(笑)。実はすごく地味な作業の積み重ねです。
でも、課題だらけで扱いが難しい防災情報にチャレンジできることこそ、「エンジニアリングの醍醐味」でもあります。
判断をうながす情報をデザインし、いち早く届ける
先ほど、人が迅速に適切な判断を下せる情報を届けるために「NERV防災アプリ」を開発したとおっしゃいました。具体的に、どのような情報の見せ方をしているのでしょうか?
ユーザー全員に防災情報の専門知識があるわけではないので、入手した情報をどう見せれば正しく判断してもらえるかを考え、デザインして迅速に発信しています。
たとえば、気象庁から「沖合で20センチの津波を観測」というデータが来ても、「沖合で高い津波を観測しました」と言い換えるんです。沖合で観測された20センチの津波は沿岸に到達すると2メートルくらいになりますが、全員がそうなることを想像できるとは限らず、逃げ遅れる可能性もあるので。
その情報がいち早く届くこともアプリの特長ですが、そのためにもやはり技術力が必要ですか?
そうですね。リリースから約6年間、エンジニアチームが改良を重ねて、ユーザーがいち早くアクセスできるように通知の速さを追求しています。
端末設定や通信環境で差はあるが、早い場合は緊急地震速報の発表から1秒以内にスマホに通知が表示されることも(画像提供:ゲヒルン株式会社)
誰に、どのように伝えたいかを意識して情報をデザインされているんですね。
ただ、そういう工夫を知らない人の中には、災害支援という人の寄り添いを感じさせる言葉と、ITという無機質な印象を持つ言葉の組み合わせにギャップを感じる方もいそうです。
ITに無機質さを感じるのは、融通が利かないインターフェースや案内の仕組みに問題があるからだと思うんです。
たとえば飲食店などで、これまでは受付で人に案内してもらっていたのに、「何番にお進みください」と画面表示で案内されるようになったとしましょう。これだと、不明点があっても店員さんに気軽に聞けませんよね。そのときにお客さんが困らないよう、いろんな改善策があるはずです。
一方、いつも肯定して褒めてくれる生成AIのほうが、人間よりも温かみがあると感じるときもあって。それと同じようにインターフェースなどを改善すれば、ITが人に寄り添っている印象を持てるようになると思います。
サービスを提供する側の工夫によって、使う人の印象が変わるような気がしますね。
誰もが自分に合った手段や形式で情報にアクセスできるように
「NERV防災アプリ」でも、インターフェースを含めた情報のアクセシビリティ(あらゆる人が支障なく情報やサービスを利用できること)に力を入れていますか?
そうですね。たとえば、プッシュ通知については、誤設定などによるトラブルを防ぐために、あえて複雑な設定は設けていません。
ただ、カスタマイズ性は叶えてあげられない一方で、誰でも重要な通知を受け取れるシンプルさを確保しました。そのバランスをとることで、使い心地をよくしています。
視覚に障害のある人のアクセシビリティにも配慮して、コントラストや文字の調整もできるようにしてあるんです。
インターフェースは、ダークテーマ・ライトテーマのいずれも選択可能。石森さん自身に緑と赤が見分けにくい色覚特性があり、自身でも見やすい配色、かつ一般的な色覚型でも見やすい配色を選べるようにした(画像提供:ゲヒルン株式会社)
あと、実はこのアプリって音声でも災害情報を通知するんですけど、ユーザーには意外と知られていません。
リリース時から、津波や地震の通知には音声を入れて、運転中などスマホを手にできないシチュエーションでも、画面を見ずに情報を受け取れるようにしました。
たとえば、大雨特別警報では、「特別警報が発表されました。最大級の警戒をしてください」と音声で伝える仕組みです。
実際、災害を伝えるニュースを見ていたら、運転手のドライブレコーダーに記録された映像が流れたのですが、このアプリの通知音声が入っていて。期待通りに情報が届いたことがわかりました。
誰にでもわかりやすい情報を届けたいので、アクセシビリティにはかなり費用をかけているんです。
そのほかにも、ユーザーが増えるほど維持費は膨らみますし、データ利用料などもかかっています。だけど、災害時に邪魔になるからと広告は一切入れていません。そもそも、アプリ単体で収益化する事業計画は立てないままリリースしたんです。
とはいえ、サービスを継続させるためには費用もかかってきますよね。事業収益はどこから得ているんですか?
法人向けの情報セキュリティなどの事業と、「便利なサービスだからお金を払って応援したい」というユーザーの声から始めたサポーターズクラブ(ユーザーが任意に会費を払う仕組み)です。
なるほど……! ほとんどの会社では収益化しづらいサービスを避けがちですが、それでも、「NERV防災アプリ」を続ける理由というのは?
「3.11」のとき、自分が欲しいサービスだったからです。当時伯母が亡くなったことは話しましたが、実家にも2メートルの津波が押し寄せて、僕の家族も逃げ遅れました。なんとか助かったものの、実家は全壊していて、「どうして早く逃げてくれなかったんだろう」とずっと思っていたんです。
「あのとき、このアプリがあったら、どんなによかっただろう」といまでも思っているんですけど、今年7月30日の津波警報(※)で、家族から「NERV防災アプリの情報を見て、山の上に避難したから無事だよ」という連絡が来て。
いち早く情報を届けて、避難の判断をしてもらう。それが僕のずっとしたかったことなので、もうそれだけでよかったなと思っています。
※ロシアのカムチャツカ半島付近を震源とする地震によるもの
進化させた防災システムの仕組みを、次の世代につないでいく
「NERV防災アプリ」について、現在の課題はありますか?
いまの課題は、アプリで利活用するデータの整備と改善です。たとえば、火山のハザードマップは火山ごとにPDFで公表されていて、アプリの地図上で使えるデータ形式にはなっていません。
各火山地域での防災対策を検討する「火山防災協議会」の中には、データが整備されていない協議会もあり、すべてのデータを入手するのが難しい状況です。
そこでいま、必要なデータを各協力機関とつくりながら、国の防災情報の改善にも取り組んでいるところです。
実際、国の防災研究機関である「防災科学技術研究所」や東京大学とLINEヤフー、NHKといっしょに「使いやすい防災データPF研究会」を開いて、各省庁にも集まっていただき、課題や進捗情報を共有することで認識を合わせながら解決に向けて動いています。
関係者のみなさんと協力しながら、さらに早く判断できるような防災情報を提供しようとされているんですね。
そうですね。いま、僕たちが改善に取り組めば、その仕組みを次の世代の人たちが長く使えるようになるはずです。
震災の記憶が時間とともに風化しないよう、昔の人たちは「自然災害伝承碑」という石碑に災害の様相だけではなく、悲しみや悔しさ、失敗を刻んで、次の世代に伝えてきました。
いまは、情報がリアルタイムで手元に届く時代です。2007年から始まった緊急地震速報に続く形で、情報伝達の仕組みはどんどん進化しています。いまではアプリで的確な情報をリアルタイムに届け、避難の判断に役立てられるようにもなりました。
これからも、すべての人の判断に役立つ情報をより迅速に伝えられる防災システムの仕組みを開発して、次の世代の人たちに残していけたらいいなと思っています。
企画:小野寺真央(サイボウズ)執筆:流石香織 撮影:小野奈那子 編集:モリヤワオン(ノオト)
サイボウズ式特集「防災とIT」
災害大国、日本。平時における防災に加え、災害が起きてからの支援活動はとても重要です。本特集では、ITで防災や災害支援活動を行う会社や団体の取り組みを通じて、防災とITの今をお届けします。
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