大学を卒業してから働きはじめるようになって、気づくと10年以上が経ってしまいました。最近はマネジメントの仕事をする機会も少しずつ増えてきたのですが、そこでいろんな人の話を聞いていると、
「自分のやりたいことがよくわからない」という悩みを抱えている人がとても多いことに気がつきます。しかも驚くのは、この悩みを抱えているのが必ずしも若い人だけに限らないということです。
先日も、僕より10歳以上は年上の人から、「日野さん、僕、自分がやりたいことがなんだったのか、最近全然わかんなくなっちゃったんですよ」という相談を受けました。
今の仕事がどうしても楽しいと思えない、その根本的な原因を突き詰めていくと、そもそも自分のやりたいことが何なのかよくわかっていないことに理由があるように思う──その人は、まるで知るべきではなかった真実を発見してしまったかのように、深刻な面持ちで話していました。
このように、「自分のやりたいことがわからない」のは、大学生や新卒数年目の社員だけに限った話ではありません。そういえば、僕の父親はそろそろ会社を定年退職する年齢になるのですが、定年後に何をやってよいのかわからなくて困っていました。どうやら「自分のやりたいことがわからない」という悩みは、何歳になってもつきまとうもののようです。
「自分のやりたいことは何なのか」という問いをつきつめていくと、最終的には「自分の人生の目的は何なのか」というところに行きつくことも少なくありません。
そして困ったことに、この問いに辿りついてしまうとほとんどの人は答えが出せずに、ますます頭がもやもやとしてくるものです。多くの人にとって、人生の意味を問い直すことは、袋小路に入り込む原因になります。
でも今回は、あえてこの問いに挑んでみたいと思います。とは言っても、僕は哲学者ではないので答えを示すことはできません。ただ、ちょっと視点をずらして考え方を変えてみる方法を提案してみたいと思います。
そもそも人生に意味はあるのだろうか?
いきなりスケールの大きすぎる話をしてしまい恐縮なのですが、あと50億年もすると地球は太陽に飲み込まれて消滅してしまうそうです。その頃までに人類がほかの惑星系に移住する術を見つけていれば別ですが、そうでない限り、残念ながら人類は滅亡することになります。
となると
人間一人の人生なんて、どれだけ偉大な業績を残したところで、長期的に見れば何も残らないことになります。
ここまで大げさな話にしなくても、ほとんどの人間の生きた証は死後500年もすれば、誰からも参照されなくなります。歴史上の人物と言われる人たちならともかく。仮に何かを後世に残すことができたとして、そのこと自体に価値があるのかというと、それも定かではありません。
あえて強い言葉を使いますが、
「結果」に着目する限り、人生にはそもそも意味なんてないのだと僕は思います。自分が生きた結果に何か意味のあるものを求めたところで、それが未来永劫価値のあるものであることはありえません。
今後も新しい世代は次々と生まれていきますし、自分のしたことは必ずその中で古くなっていきます。そしていずれ忘れられます。人類も最終的には滅亡します。悲しいけど、たぶんこれが真実なのではないでしょうか。
人生に結果だけを求めてしまうのは、食事に栄養摂取だけを求めることと同じ
もちろん、この考えに全力で抗うことで、人生に生きる意味を見出すのもアリだとは思います。たとえばイーロン・マスクのように、人類を滅亡の運命から回避するため、火星移住を本気で考えて実行に移す人生には、彼なりの意味があるように思われます。
もっとも、誰もがイーロン・マスクのように生きなければならないとも僕は思いません。人生に意味はないと認めたとしても、自己肯定感を持って生きていくことはおそらく可能です。そのためのポイントは、
人生の結果ではなく「過程」に注目するという方法です。
世の中には、結果よりも過程を楽しむことのほうに重きが置かれている営みが数多くあります。たとえば、食事などはその典型でしょう。食事のもたらす結果だけに注目するならば、その目的は栄養摂取になりますが、栄養摂取だけを求めて食事をしている人は、現代社会だとおそらくほとんどいないのではないでしょうか。
むしろ食事を取る過程で
その味を楽しんだり、仲間といっしょに楽しい食事の時間を過ごすことのほうに、多くの人は重きを置いているのだと思われます。「こんなの食べたところで、ほとんど栄養にはならないから意味はないよね」という態度で食事に臨んでも、虚しいだけでしょう。人生に結果だけを求めてしまうのは、食事には栄養摂取以外の意味はないと決めつけるのと同じことです。
「プロセス自体を楽しめる」ことなら、結果は気にしなくてもよい
「こんなことやっていて何になるんだろう……」という思考が頭をもたげた時は、まずはそれがもたらす結果よりも、そのプロセス自体を自分が楽しめているのかに立ち返って考えてみるのがおすすめです。
たとえば、プログラマーだったら自分がコードを書いた結果で世の中がどうなるかといった話よりも、自分がコードを書くこと自体を楽しめているのかを考えてみたほうが、虚無の世界に引き込まれずに済みます。やりたいことがわからないなと思った時は、まずは
その結果よりも、プロセス自体を自分がどう感じるかについて分析してみるとよいでしょう。
もちろん、自分がやった仕事の結果、誰かが喜んでくれるとか、世の中に良い影響を与えられるというのはすばらしいことです。ただ、それで自分がまったく楽しくないというのであれば、やはり僕は何かが間違っているのだと思います。
先ほどの食事の例に照らすなら、それは栄養満点だけど美味しくない食事のようなものです。そういう食事を我慢して食べ続けなければいけないという考え方は、僕としては受け入れられません。
やりたいことは、実際にやってみないと見つからない
もう一点、プロセスに注目してやりたいことを見つける際に、覚えておくとよいことがあります。それは、
「やりたいことは、実際にやってみないと見つからない」ということです。何をすると自分の心が動くのかは、行動せずに頭の中だけで考えてみても普通はよくわかりません。
最近、そのことをあらためて実感する出来事がありました。僕は本業ではエンジニアの仕事をしているのですが、最近まではコードを書くのが好きで、自分にはマネジメントの仕事は向いていないと思っていました。
いろんなところで「向いていないのにマネージャーにされてしまった人たち」の引き起こす悲劇を、たくさん耳にしていたからかもしれません。なので最近までは、頑なにマネジメントの仕事はやらないと断り続けていました。
ところがふとしたきっかけで実際にやってみると、思ったよりも奥が深くて、実は意外と楽しいかもしれないと思うようになりました。まさにやってみることで、頭で考えただけでは気がつかない発見に行き着いたというわけです。
もちろん、これは逆のパターンもありえます。頭で考えていた時には自分にとって楽しいことだと思っていたけど、やってみたらそうでもなかった、という話もよく耳にします。そんな時は過去の自分の考えに固執することなく、やってみた時の感覚に照らして柔軟に頭を切り替えられるとよいでしょう。
頭の中だけであれこれと考えて人生のやりたいことに辿り着こうとするのは、たとえるなら、ロケットの弾道計算を必死にやって月面着陸を果たすくらい難しいと言えます。
すべては事前に地上で計算しておかなければならず、途中で起きた不測の事態に対処する術はありません。計算を間違えたせいで、とんでもないところに飛んでいくリスクもあります。
一方、実際にいろいろとやってみながらやりたいことを見つける方法は、車の運転に似ています。車の運転では、ハンドルを握ってアクセルを踏みながら、周囲の状況に応じて運転の仕方を変えながら目的地を目指します。先行きが思わしくなければブレーキを踏んで減速し、Uターンすることだってできます。時には思い切って寄り道をするのもいいかもしれません。
ほとんどの人におすすめなのは、やはりロケットではなく自動車の運転と同じ方法を取ることです。最初にすべて計算したとおりにいく人生なんてまずないですし、結果が100%はっきりしている状態は面白くない気もします。
以上をまとめると、まず人生で何がしたいのかわからなくなってしまった時は、何をしていると自分は楽しいと感じるのか、実際にいろいろとやってみながら考えていくのがよいと思います。その際には、その行為がもたらす「結果」よりも「過程」に注目してみてください。
「これって意味あるんだっけ?」という問いが頭に浮かんでも、自信を持って「意味なんてない!」と開き直ってしまって大丈夫です。「意味なんてないけど、それでも楽しいから自分はやるんだ!」と自信を持って言えるものなら、それは間違いなく人生においてやる価値のあることだと言えるはずです。せっかくの一度切りの人生、楽しんでいきましょう!
執筆・日野瑛太郎/イラスト・マツナガエイコ/編集・鮫島みな
2016年12月15日モヤモヤを抱えながら働いている人は、「他人の人生」を生きていないか?
2017年03月16日「やりたいこと」がないインターン就活生が、やりたいことを探す話
2019年06月03日会社から自由になるだけでは「脱社畜」とは言えない──大切なのは、自分の人生を歩んでいる実感を持つこと
2022年11月08日「自分のやりたいこと」がないと、肩身がせまい?──『夢組』と『叶え組』がいるから、組織はうまく回るんです