お坊さんと言えば「人格者」というイメージです。悩みごとがあれば「その場合は、こうするといいですよ」と導いてくれる……そんな印象があります。メディアでも、説法されている姿をよく観ますよね。
そんなお坊さんですが、実は、かなり悩んでいるようなのです。ひょっとしたら、一般人よりも「闇が深い」かもしれません。
今回は、若手のお坊さんを対象にしたキャリアスクール「TERA WORK SCHOOL」を運営されている株式会社人と土の田中勲さんと、講師をつとめられている光琳寺 住職の井上広法さんに「お坊さんのキャリア」についてお話を伺いました。
そこにあったのは、ビジネスパーソンにも通ずる内容でした。「お坊さん」を「わたし」、「お寺」を「会社」と読み替えると、いろんな「闇」から、さまざまな「人生訓」が見えてきました。
お坊さん、悩みってあるの?
お坊さんのイメージと言えば、人に説法したり、悩みを聞いて差し上げて「仏さんが見ていらっしゃいますから、大丈夫です」みたいな、悟りを開いていて悩みなど何1つない印象があります。
あと、生活と言えば、葬儀があったときにお経を上げるのが仕事で、檀家さんがいればお布施もあるし、生活は安泰……みたいな印象があるのですが、そもそもお坊さんって、悩みってあるんですか?
田中 勲(たなか・いさお)。株式会社人と土代表取締役。TERA WORK SCHOOL ディレクター。1984年、大阪生まれの岐阜育ち。青年海外協力隊としてボリビア多民族国にて現地市役所に所属し、スポーツ振興・文化交流事業に従事。帰国後、2012年にNPO法人G-netへ入社。持続可能な地域づくりのために中小企業への事業推進と組織開発支援と若者向けキャリア自律支援に取り組む。当法人理事をしながら、株式会社人と土を設立。寺院の事業支援も含め、より広範囲な地域づくりを目指し、若手僧侶のキャリアサポートを目的にTERA WORK SCHOOLを同志とともに立ち上げる。
近年のお寺は世襲が一般的で、若いお坊さんの多くは、子どものころから「継ぐこと」を決められて育っています。
以前は、住職として檀家さんたちといっしょに寺を運営していけば、あまり難しいことを考えなくてもやって行けたんです。
でも時代が変わって、いざ継ぐとなったら、檀家さんが減っていたり、お寺離れが進んでいたりして「聞いていた話と全然違う」と。
すると、「このままの方法でお寺を続けていくことが正しいのか?」「形を変えて続けなきゃいけないのか」みたいな話になるわけです。
将来を決められているから、自分と向き合えない
このような悩みを抱える若いお坊さんたちは、「自分と向き合う」経験をしてこなかった人が意外と多いです。進路が固定されているぶん、その発想自体がないというか。
生活も仕事もお寺とともにありますよね。お寺と自分が重なりすぎていて。あるTERA WORK SCHOOLの参加者は「お寺と自分を離して考えるのが怖い」と言っていました。
お寺を剥がしたとき、「そこに自分というものがなかったなかったらどうしよう……」って思ったら、怖すぎて覗けないんです。
たまねぎを1枚ずつむいていったら、何もなかったみたいな感じですよね。
井上 広法(いのうえ・こうぼう)。1979年宇都宮市生まれ。中学卒業後、高校へ進学せず一年間ひきこもる。その間人生の意味を問い続け、一年遅れて高校へ進学。その後佛教大学で浄土学を、東京学芸大学で臨床心理学を専攻。仏教と科学の両面から人間の心のメカニズムについて探求する。僧侶に人生相談ができる「hasunoha」やご先祖様を見える化するおもちゃ「いのちの積み木®」、コワーキングスペース「áret」をオープンするなど仏教への入り口を数多くデザインする。TERA WORK SCHOOLには講師として関わる。
キャリアスクール立ち上げの時に、あるお坊さんから「仏教は我(=自分)というものはないという教えなんだよ」と言われたことがあって。まさにたまねぎですよね。
「自分」は常に変わるし、自分自身に「これだ!」と固執しすぎるのは違うと思います。それでも、つど自分の輪郭を掴もうとする行為は必要です。これはお坊さんに限らない話で。
ふだん若者支援や企業支援をする中でも、自身のリーダーシップやパーソナリティーがどういったものかを考え、それをどうキャリアや経営にフィードバックさせるかに向き合います。
お寺の「あるべき」の呪縛
あと、ある大学生は「お寺としてのあり方」を親からよく言われているみたいで。「僧侶は、檀家さんやお寺のためにあるべきだ」とか、「檀家さんよりもぜいたくしてはいけない」とか。
その方針自体を否定するつもりはないですが、その子がしんどくなっているのは事実で。
なので、僧侶としてはありたいんだけれども、「お寺で働くことに未来や希望を見出せない」と言っていました。「お寺を継ぐ=人生が終わる」みたいな。
まだ、20歳前後の子が「人生が終わる」ですか……涙が出そうになります。
お坊さんだって、自分の「こうしたい、ああしたい」っていうものを持っていいし、大事にしていい。楽しく働いてもいいと思うんですけど、「それは、あなたのわがまま」だと言われる。
その結果、職業や進路選択すら自分の意思なのか、それとも、お寺をおもんばかっての意思なのか、わからなくなってしまう。
特にいまは多様な社会だから、周りの友達はみんな自由にキャリアを積んだり、好きな仕事をしたりしている。でも、自分は自由がなくなる。だから、お坊さんになると「真っ暗なトンネルの中に入る」ように見えるんですね。
しかも、お寺によって規模も状況も違うから、同業者同志で腹を割って相談しづらいんですよね。
一方で、全くの異業種だとそもそもの前提が共有しづらいから、身近に相談できる相手が意外といないんです。
どんなキャリアを積むかもそうですし、お寺の経営にしてもそう。「正解」がないことに向き合っていかなきゃいけない。自分の軸がなかったり、仲間がいなかったりすると踏ん張れないというか、ちょっとしんどいんです。
「逃げられない」重さ
跡継ぎのお坊さんがもっとも「重いな」と思うのは、「継がない」となったら、家がなくなることですね。その場所からお父さんもおじいちゃんもいっしょに出て行かなければいけないんです。
会社を畳むんだったら、「あそこ、会社をたたんで、なんか別のことやってるよ」でいいじゃないですか。
でも、お寺は住職のものではなく、あくまでも管理している立場なんですよね。管理できないとなったら、別のお坊さんがお寺に入る必要がある。
だから、僧侶の場合、別のことができないんです。たとえば「お寺をやめてマンションにします」って言ったら、「お墓はどうするんだよ」ってなりますからね。だから、家も、墓も、ふるさとも全部なくなります。
社会のどのフィールドで「自分の個性を発揮するか?」
そういった若いお坊さんに、TERA WORK SCHOOLでは、どんなことを伝えていらっしゃるんですか?
実は、広法さんの他に、アメリカのシアトルでリーダーシップ研修を長年担ってきた方に講師に入ってもらっています。このリーダーシップは、誰かを引っ張っていくようなものではなく、“自分を引っ張っていく”ようなリーダーシップ。
そこでまずお伝えしているのは、「いったん、お寺のことは横に置いておいてください」と言っています。「△△寺の〇〇」です。じゃなくて「〇〇さんとして、そこにいてください」と。
これは会社員でもあるあるですよね。「△△会社の〇〇」ですという自己紹介をしてしまいがち。
お坊さんって、「お寺は~」「仏教は~」みたいに、主語がわりと広いんですよね。
基本的にソーシャルマインドが高い人が多いと思いますが、言い方を変えると「自分は」がない。
そのために「この先、僧侶としてどう働き、生きていこう」と考えた時、若い僧侶ほど悩んでしまうんです。
そこで、あえてベクトルを自分に向けて「自分と向き合ってみる」というか、「自分の輪郭を見てみる」というか、「大事にしていることは何なのか?」を探るワークショップをします。
そのあとで、お寺や僧侶を定義しなおします。今度は自分を1回横に置いて、お寺や僧侶という仕事を拡張するというか、範囲を広げるんです。
お坊さんのことを「住職」と言いますが、僕は「10の仕事ができて、住職」と言っています。
そこで、僧侶の前に好きな言葉をつけて「〇〇僧」と表現するんですよ。
たとえば、お坊さんにも絵がうまい人がいます。そのお坊さんは「画僧」と言われてきました。音楽が好きなら「音楽僧」、俳句だったら「詩僧」とかね。勝手に自分で定義する。何をつけてもいいんです。
僧侶以外にも、自分の意思でいろんな役割を担えるってことですね。
つまり、お坊さんという軸を持った時に、自分が社会の、どのフィールドで自分の個性を発揮するか? ということです。
「自分」と「僧侶」をつなげる
お坊さんって、なる前はすごい細い道だし、修行に入ると髪の毛を剃らないといけないし、できないことが増えると思うんですよ。そして、その細いトンネルの中に入って、お坊さんになりました。
ところが、いざ住職になると、自分の裁量で何でもできるんですよ。たとえば僕は、テレビ番組の企画や企業研修のファシリテーションなどジャンル問わず取り組んできました。
他にも、2019年にコワーキングスペースをつくりました。「寺をひっくり返そう」という思いも込めて「áret(アレット)」という名前を付けました。
「こんな裁量権があったんだ」ってことに気づくと、自分のできることでもいいし、好きなことでもいい。「お坊さん」に加えて、トッピングしたり、掛け算したりする。
お坊さんって1周回ると意外とね、生き甲斐がある立場なんです。
さきほど、田中さんがおっしゃっていた「お寺を拡張する」っていうのは、「僧侶」という仕事に対して、上位の目的とか、価値をつけるって感じですか?
そうですね。ワークを通じて「僧侶」が仕事っていうより「生き方」だと気づく。自分がどう生きたいかを起点にお寺と向き合うと、自然とお寺の価値や役割も広がる。
そうすると、“手段”に惑わされなくなるんですよね。
たとえば、「カレー坊主がトレンドだから、じゃあ、カレー坊主」のように追っかけても、大成しないしやりがいないですよね。
そうそう。わたしは地域の中小企業のサポートもしていますが、同じ現象によく出くわします。「これが流行りだから」といっていろんなことをやると疲弊しちゃうんですよ。
でも、自分と繋がっていると、周りがどうとか関係なく自分は楽しいし、やりがいも生まれていく。
自分とつながると、初めて仕事が楽しくなるのでしょうか?
わたしたちはよく、主語の「I(わたし)、We(わたしたちやお寺)、Social(社会)」を分けて、「I」を大切にしようという話をするんです。
お寺のために、地域のために……も大事だけれど、まずは「I」――つまり、自分を出発点として、どういうWillを持っていて、どんなパーソナリティを持って、どんなことが楽しくて、どんなリーダーシップを表現していきたいのかを大切にしてほしい。
「自分」と「僧侶」が結びつくと、仕事もキャリアも楽しいし、お寺の経営も楽しいはずなんです。
すべてのお坊さんは、若いころから「お寺を継ぐべき」という十字架を背負っています。お寺生まれなのに、十字架とはちょっとおもしろい話ですけど(笑)
その十字架をおろして、個人として自分自身と対話をすることが大切なんです。
ライスワークかライフワークか
これまでうかがったお坊さんのキャリアの課題は、ビジネスパーソンにも通じるところがあると思います。
もし、わたしたちがキャリアに対してモヤモヤしていているとき、「大切なのは、つまりこういうことなんだよ」みたいなことって、一言で言うとなんだと思いますか?
キャリアって言うと「もっといい仕事をもらうための階段」みたいな印象が僕にはどうしてもあって。
レンガ職人の話ってあるじゃないですか。傍から見ると、みんな同じレンガを積んでいるんだけれど、1人目は、今日食べる日銭を稼ぐため。つまりJobですよね。
2人目は、もっといい仕事をもらうために、仕事で成果を出す。つまり Career ですよね。
3人目は、100年後もこの街に残る大聖堂を作っているんだ。これをCalling……つまり、天職とか、お召しです。僕は仕事を Calling に変えていくことがとても大事だなと思っていて。
仕事をこなすんじゃなく、キャリアを高めるのでもなく、どこに行きたいか指をさす、ディレクションをすることですよね。
仕事って「仕える事」って書くじゃないですか? 僕はそれを「志の事」って書いて志事にしていきたい。
ライスワークかライフワークか。そこの判断がこれからすべての人たちに問われていく。
そのためにも、一度自分を内省して、「そもそも何だ? 自分は」を見つめてみなきゃいけないわけですよ。
自分を内省する。自分の中に降りていく。でもそれは、しんどい作業でもありそうです。
弱みを開示できる仲間の大切さ
自分の弱さを吐露できる場や仲間は大切ですよね。弱いところもちゃんと見せることができると、深まる。弱いところも含めて自分のパーソナリティなんですよ。
強さももちろんそうですけど、弱さというか。それをちゃんと開示してくれるコミュニティがあるのはいいことなのかな?
そうだと思いますよ。自分と向き合うという場を経験した仲間だからっていう心理的安全性はあると思う。
だからといってグチグチ言うのは違うと思いますが、いいところや強みの共有だけではなく、弱みや停滞感も共有できる関係性は大切です。
弱みを共有できれば、帰れる場所ができるし、いっしょに開示した人は仲間になる。そこから、日々どうアウトプットしていくかを考えていけると良いのかもしれませんね。
企画・執筆・撮影:竹内義晴
2021年1月12日評価から離れてただ共にいる時間をつくる。光明寺・松本紹圭さんに聞く、おそれに強いチームの生み出し方
2016年1月14日僧侶が大企業病になっている?──『ボクは坊さん。』白川密成×サイボウズ青野慶久