未来の計算技術を、私たちの手元に「量子古典ハイブリッドコンピューティング」
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この記事を読むことにより、読者は量子コンピュータの現状と未来の可能性について理解を深めることができる。まず、量子コンピュータは量子ビットを用いて従来よりも複雑な問題を短時間で解くことができる可能性があるが、実用化にはまだ課題が存在することが説明される。また、量子ゲート方式と量子アニーリング方式という異なる手法の違いについても触れられ、それぞれの利点と限界が概説される。特に、量子アニーリング方式が組み合わせ最適化問題に強いことが語られ、具体的な応用例として配車経路問題が挙げられる。
さらに、量子コンピューティングの限界と可能性を実社会の問題に適用するための量子古典ハイブリッドコンピューティングについても詳しく説明される。このハイブリッドアプローチにより、現在の技術でも古典コンピュータの強みを生かしつつ、量子コンピューティングの力を利用する方法が示される。さらに、こうしたシステムは2025年を目標に実用化が進むと予見されており、量子コンピューティングが将来の産業に大きな影響を与えることが期待されているという未来展望も理解することができる。
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2021.3.16
技術・デザイン未来の計算技術を、私たちの手元に「量子古典ハイブリッドコンピューティング」
量子コンピューターの「今」と、未来のビジョン
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AI研究部 量子コンピューティング研究課入江 広隆
2008年に京都大学で博士(理学)を取得し、高エネルギー加速器研究機構(KEK)、国立台湾大学、国家理論科学研究中心(NCTS、台湾)、基礎物理学研究所(京都大学)で博士研究員、日本学術振興会 特別研究員などを務め、超弦理論/数理物理学の研究に従事。2018年にデンソーに入社し、量子古典ハイブリッドコンピューティングの実用化に向けた研究に取り組んでいる。
「量子コンピュータ」というキーワードが、ニュースで注目を集めるようになっている。量子コンピュータが実現されれば、今のスーパーコンピュータでは何千年もかかるような複雑な問題も一瞬で解ける……。そんな夢物語も聞くが、はたして量子コンピュータの実用化は今どこまで近づいているのか? どんな可能性を秘めているのか? デンソーで量子コンピュータ研究に取り組む入江広隆博士に、量子コンピュータの今と未来のビジョンを尋ねた。
この記事の目次
現実となった量子コンピューティング、どう使っていくのか?
2019年に、Googleが量子超越性1を実証したと発表するなど、世界的に量子コンピュータが注目を集めています。その一方、量子超越性の実証に使われた計算には実用的な意味はないという反論があり、(インターネット上で使われている)素因数分解を用いた暗号を一瞬で解けるような量子コンピュータの実用化には何十年かかるか分からないという意見もあります。量子コンピュータは、まだまだ夢のマシンなのでしょうか?
1. 現在のコンピュータでは膨大な時間を必要とする何らかの計算が、量子コンピュータを使うことで圧倒的短時間で処理できること。
入江:おっしゃる通り今現在の量子コンピュータは、量子を制御する技術が発展途上であるため、素因数分解を一瞬で解くと言われるような理論的性能をまだ実現できていません。ただし、その未完成な量子技術であっても、ちゃんと有用性を引き出して今現在使えるようにしていくことは可能であると思っています。
まずは量子コンピュータについて、順を追って説明していただけますか?
入江:現在使われているコンピュータ(量子コンピュータと区別するため、以下「古典コンピュータ」)は、0か1の値を取るビットを基本単位として計算を行います。これに対して量子コンピュータは、0と1とその重ね合わせが可能な「量子ビット」を基本単位として計算します。古典コンピュータでは比較的時間がかかる、あるいは現実的に解けないような問題を効率的に計算するためのマシンです。
量子コンピュータの定義については諸論ありますが、「量子ゲート方式」と「量子アニーリング方式」が代表的です。「量子ゲート方式」はあらゆる量子計算を構築する目的で作られ、量子効果を自由で積極的に活用することで量子計算の強さを引き出しやすくなっています。量子ビットを正確に制御することは難しいため、まだ100量子ビット未満の実装ですが、今後進化が加速してくるでしょう。また先ほど挙がった因数分解のように、完成すれば圧倒的な性能を引き出せるという理論的保証があります。
一方、「量子アニーリング方式」は完全な量子制御を敢えて行わず、量子ビット自体の自然な状態変化を利用したもので、「量子アニーリング」という量子アルゴリズムに特化したマシンです。「量子アニーリング」自体は量子ゲート方式でも実装及び研究がされており、量子効果を積極的に使える良さもありますが、量子ビット数で見れば量子アニーリングマシンの方がより大きな問題が扱えます。私たちが研究に用いているD-Wave社の量子アニーリングマシンでは、現在5000量子ビットの実装までできています。
量子アニーリングマシンが扱う「量子アニーリング」とはどのようなものでしょう? また、量子アニーリングマシンのプログラミングは、古典コンピュータとはまったく異なるのでしょうか?
入江:量子アニーリングは、多数の選択肢から最もよい組み合わせを選ぶ「組み合わせ最適化問題」を解くための量子アルゴリズムです。組み合わせ最適化問題は実社会での多くの応用が考えられます。一般に、古典コンピュータでは膨大な数の組み合わせから逐次選択と確認を行いながら問題を解いていくのに対し、量子アニーリングでは「量子力学的もつれ」を伴う「量子ゆらぎ(トンネル効果)」を用いて比較的容易に最適解に近づいていけます。
ちなみに「量子力学的もつれ」とは、「シュレディンガーの猫」の様な普通(古典的には)有り得ないような重ね合わせを用いるということです。古典コンピュータでは同時に探索できない状況であっても、量子アニーリングなら(あくまで状況が理想的であれば、ですが)同時探索が行えます。ただし組み合わせ最適化問題は量子アニーリングの専売特許というわけではなく、古典コンピュータの方が効率的に解ける問題もたくさんあります。
量子アニーリングマシンでは、マシンのエネルギー状態を記述する「ハミルトニアン」と呼ばれる関数を入力して操作します。量子アニーリングを使った計算の基本的な流れは、ハミルトニアンで数式を構築し、その情報を量子アニーリングマシンに渡して計算させ、結果を受け取るということになります。ハミルトニアンの構築方法(アルゴリズム)によって、性能も大きく変わってきますから、ここには数学的というより物理的な発想と工夫が必要になってきます。
ただし、量子アニーリングマシンによる計算だけで、何かができるわけではありません。実際の応用ではまず、現場にある課題のどのような側面に「組み合わせ最適化問題」を適用できるかを見極める必要があります。次に、古典コンピュータをベースとした最適化計算を行いつつ、その上でどの部分に量子アニーリングによる計算を組み込むかを考えなければなりません。また量子アニーリングマシンに送る情報をどのように準備するか、最適化演算の結果をどう処理して私たちが使いやすいようにするかなど、結局は古典コンピュータによるプログラミングが大多数を占めます。
その一方で、性能の出せるハミルトニアンの構築方法がすでに知られているのであれば、量子力学的な計算の中身を理解しなくても量子アニーリングマシンを十分に使うことができます。そのため、古典コンピュータをよく理解しているソフトウェアエンジニアがむしろ即戦力になります。
古典と量子が1つになって未来を切り開く
量子アニーリングでは、どのような実問題を解くことができるのでしょうか?
入江:色々な実問題を解くことができますが、ここでは複数台のクルマを使い、複数のお客さんに対して荷物を配達する「配車経路問題」をお見せしましょう。ただし、この配車経路問題は少し特殊です。通常の宅配便などでは時間帯指定で「午前中」とか「午後2時から午後4時」といった枠を1つだけ指定します。これくらいの問題設定なら古典コンピュータでもそれなりに解けてしまいますが、ここで考える配車経路問題はさらに、それぞれの顧客が10分単位で複数の「配達可能」「配達不可」の時間を指定します。
この問題は、2019年に量子アニーリングマシンを用いて解きました。ただし、3台のクルマで6人のお客さんに対して2時間(15分刻みの8コマ)で配達をするという規模感。ちょうど下図で与えたサイズより、さらに少し小さいくらいです。時間帯指定が複数あるため少し目が回りそうですが、これくらいなら普通の人でも大まかな見当でスケジュールを組むことができると思います。結局これくらいのサイズでは、量子コンピューティングが現実問題に対してどれくらいの実力を発揮できるか、判断できるところまではなかなかいかないでしょう。
現実問題へはまだまだ遠いという感じですね。
入江:でもこのサイズが当時最新の量子アニーリングマシンD-Wave 2000Qで解くことができる最大サイズだったのです。正直、これくらいのサイズなら古典コンピュータでも一瞬で解けます。ならば、どこで量子アニーリングマシンの良さが発揮されるのかといえば、「大規模問題」ということになるわけです。
ここにもう一つ、2020年に計算した結果があります。20台のクルマ、160人のお客さんを5時間(10分単位、全部で29の時間枠)で配達するという配車経路問題です。そしてやはり複数の時間帯指定がランダムに設定されています。このサイズでこれだけランダムに設定された時間帯指定をかいくぐって良いルートを見つけ出すのは、ちょっと普通のやり方では解けない問題です。このような、より難しく、より大規模な問題で量子コンピューティングの良さが出てくると考えられます。
クルマ20台、顧客160人となれば1つの配送拠点くらいのサイズですね。これが可能になったのは、量子アニーリングマシンの性能が上がったからなのでしょうか?それともアルゴリズムを根本的に変えたということなのでしょうか?
入江:ここでのポイントは2つあります。1つは2020年にD-Wave社がリリースしたD-Wave Leap Hybrid Solver (version 2) を用いていることです。中身の詳細は明確には公開されていませんが、古典コンピュータベースの計算法と量子アニーリングを組み合わせることで規模の大きな問題を効率よく扱えるようになっています。2019年の研究では、量子アニーリングマシン単独の計算であったため、小さな問題しか解けていませんでしたが、2020年の研究では、この量子アニーリングと古典コンピュータとのハイブリッドを用いて、大規模問題が解けるようになりました。
また2つ目のポイントは、ハミルトニアン(アルゴリズム)の工夫によるものです。通常、巡回セールスマン問題のようなルートを求める問題において、規模が大きくなればなるほど量子アニーリングでは有効な解が算出できないことが経験的に知られています。もちろん今後量子アニーリングマシンの性能が向上していけば話は別かもしれませんが、今の量子古典ハイブリッド計算では、完全な最短ルート(最良解)を算出することはやはり困難です。それでもちゃんとした解が計算できるのは、ソルバー性能が出ていなくても良解が取り出せるよう工夫されたハミルトニアンになっているからです。
ハイブリッドというのは、今の量子アニーリングマシンが未熟だから仕方がなく使っているという印象を受けました。将来、大きな問題を扱える量子アニーリングマシンが開発されれば、必要なくなる技術なのですか?
入江:私は決してそうではないと考えています。全ての問題を量子コンピューティングで計算すればよいというものではなく、量子コンピューティングはあくまでも「難しい問題」を解く方法です。一番難しい問題は「一様にランダムな問題」です。例えばGoogleの量子超越性やD-Waveマシンのベンチマークに使われる問題は(量子シミュレーションなどの量子系をそのまま使う計算を除けば)全体として一様に難しいランダムな問題が使われます。そして、そこでの性能は確かに発揮できていると言えるでしょう。
一方で私たちが解決したい実問題はそうではありません。
直感的な言い方をすれば、実問題というものは、「簡単な部分問題」と「難しい部分問題」が複雑に絡み合いながら混在していることがほとんどです。簡単な問題が多く含まれていると、古典コンピュータの方が相対的に優位に計算できるでしょう。そのような問題を量子コンピュータに実装しても、量子コンピュータの実力をフルに発揮することはできません。実社会におけるビッグデータを扱うとなれば、そのような問題が圧倒的に大多数だと思います。そうすると、量子コンピュータの出番はどこにあるのでしょう?
入江:そう思いますよね。実は実問題を解くためには「古典コンピュータによって問題を解きつつ、難しい問題を取り出す」という作業が必要なのです。これは一見どうすればよいかと悩むことでもあるのですが、2020年に理化学研究所の理論物理・計算物理の研究者の皆さんと一緒に、その手法の一端を示すことができました。それが「HQA」(ハイブリッド量子アニーリング)という仕組みです。
組み合わせ最適化問題の解法として、分子運動のシミュレーションを利用する方法を作ることができます。この方法は、古典コンピュータによって量子アニーリングを模倣し、分子の自己組織化によって最適解に近い状態を導くというものです。通常量子計算機であれば、計算の途中過程を見ることができません。それは私たちが観測することで量子状態を壊してしまうからです。しかし、量子アニーリングを古典コンピュータで模倣すると、途中の軌跡を見ることができてしまいます。そしてその中で悩んでいる変数が古典的に解くことが難しい変数、量子アニーリングマシンで解くべき問題に対応します。この過程は問題を遠心分離機にかけて変数を固定しつつ、古典コンピュータが悩んでいる少数の変数を浮き上がらせるような仕組みです。実際に図の例では、全部で1万個ある変数のうち、400個の変数が浮き上がった様子を示しています。この取り出された部分問題は「実問題に潜む一様にランダムな難しい問題」だと言えます。
この考え方はさまざまな問題に対して汎用的に適用でき、なおかつとても効率的に実問題の「簡単な部分問題」と「難しい部分問題」とを仕分けることができます。この抽出した「難しい部分問題」だけをD-Wave Leap Hybrid Solverなどの量子古典ハイブリッド・システムに送るようにするだけで、古典コンピュータ単独で処理するよりも、短時間ではるかによい精度の解を得ることができます。現在は先述した配車経路問題について、このHQAを適用しようとしています。
量子と古典とのハイブリッドが未来の都市を作る
量子コンピューティングは、配車経路問題以外にどんな実問題に応用できそうでしょうか?
入江:応用先として、古典コンピュータと同じぐらいの良さで良いのならば様々な応用の仕方があります。しかし、量子古典ハイブリッドコンピューティングの優位性は、ある程度の大きさと難しさを持った問題で発揮されます。先述した配車経路問題の「複数時間帯指定」は極端な例ですが、この様な「付加価値」を付与されたさまざまなスケジュール問題に対しても優位性を見出すことができると思います。
これからのモビリティ社会では、各車がクラウドでつながり、その情報がサイバー空間のデジタルツインとして集積されることになります。デジタルツインに集まってきた複数の情報を絡めて最適化を行う必要が出てきますから、量子コンピューティングによる難しい問題を解く力がそこで生きてきます。量子コンピューティングによる情報の最適化は、人や交通、物流の最適化を通して、私たちの生活をいつの間にか豊かにしてくれる、未来のモビリティ社会におけるコア技術となるでしょう。
量子コンピューティングが実社会で使われるようになってくるのは、いつ頃だと思いますか?
入江:2025年頃には、実問題において量子コンピューティング単独での優位性も明確に見えてくるでしょうが、量子コンピューティング単独で扱える規模だけでは、実社会の課題解決には至りません。しかし、量子古典ハイブリッドコンピューティングを用いればその優位性を実社会の問題で活用できる。その意味で、私たちは2025年を一つの目標として量子コンピューティングの優位性の恩恵を受けるシステムを作り上げていきます。
量子古典ハイブリッドコンピューティングの恩恵を受ける産業としては、先述のモビリティや工場でのIoTがあります。さまざまなスケジュール問題を量子古典ハイブリッドコンピューティングで最適化できますが、私たち自身が機械ではありませんから最適解の活用にも限界があります。何となく頭で追える「職人技の最適化+α」が、人間の関わる問題に関しては適切なのかもしれません。
そう考えると、量子古典ハイブリッドコンピューティングの真価はその先、人知をはるかに越えた難しい問題でこそ発揮されるのではないでしょうか。材料開発や機械学習にはそのような応用が数多く潜んでいると思います。
そして、量子古典ハイブリッドコンピューティングによる実社会の最適化が成功した先になるとは思いますが、量子ゲート方式も含めた「量子性を用いた量子計算の実応用」を本格的に考えなければならなくなると思っています。それにしても、思った以上に量子コンピュータは現実に近づいていたのですね。
入江:それでもまだまだ、私たちが技術的に解決していかなければならないことがたくさんあります。ただ量子コンピューティングは未来のテクノロジーだといわれますが、その未来を見据えた上で、今きちんと使える計算システムを構築することが大切です。今きちんと使えたうえで、量子技術の今後の進化を自然に反映できるシステムを構築する。それが今現在、私たちが注力すべきことだと考えています。
デンソーに入社する前、私は国内外の大学や研究機関で超弦理論を研究していました。超弦理論はこの宇宙の根源を説明する究極理論だと言われますが、私が生きている間に実証されることはないと思われます(もちろん将来何が起こるか分かりませんが)。そのような実社会とかけ離れた研究に没頭してきたからこそ、それまでの研究で培ってきた知見を今度は10年後や100年後ではなく、数年というタイムスパンで社会に生かしていきたい。その思いが量子コンピューティングの力を今使えるようにするシステム構築への原動力となっています。
また量子古典ハイブリッドコンピューティングだけでは社会を豊かにできません。現場での最適化と格闘する多くの仲間と連携することで、量子コンピューティングでなければできないアプリケーションを作り上げていきたいと思っています。
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