それでも私はオリンピックをめざす。第一人者の誇りと最後の挑戦
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記事を通じて得られる知識としては、まず藤本那菜選手が日本国内のアイスホッケー界でリーダーシップを発揮し続け、特にゴールキーパーとしてのキャリアを積んできた点が挙げられます。彼女は、世界最高峰の北米女子プロリーグに日本人選手として初参戦し、オリンピックに3度挑戦した経験を持ちます。また、藤本選手がアイスホッケーを始めたきっかけは、彼女の父親から受け継いだ「やるからには1番になれ」というメンタリティーにあることがわかります。
彼女の競技人生には、オリンピックで初めての全敗を経験したソチ大会で感じた世界との差や、北米での厳しいトレーニングを経て得た海外選手との対等な戦いを教訓として、気持ちの切り替えの重要さを学んだことがあります。さらに、けがを乗り越える中でリハビリやトレーニングを継続し、結果的にプレーの精度が向上したことも知識として得られます。
藤本選手は現在、日本での指導活動を通じて、若い選手の育成にも力を入れており、この経験が彼女自身の競技力向上に繋がっています。コミュニケーションを大切にし、プレーを通じて恩返しをするというモットーを持ちながら、次回のオリンピックを最後の挑戦と位置づけ、さらなる高みを目指している姿勢も重要なポイントです。
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2024.11.12
キャリア・生き方それでも私はオリンピックをめざす。第一人者の誇りと最後の挑戦
国内アイスホッケー界を長く牽引してきたデンソー北海道の藤本 那菜。世界最高峰の北米女子プロリーグに日本人選手として初めて参戦し、オリンピックを3大会連続で経験したGK(ゴールキーパー)です。道なき道を踏みしめてきた第一人者が、競技人生の集大成として4度目のオリンピックをめざす思いとは。
この記事の目次
「やるからには1番になれ」。父から受け継いだメンタリティー
──アイスホッケーを始めた頃の話から聞かせてください。
趣味でアイスホッケーをしていた父の影響で、小学校1年生の時に競技を始めました。選手と選手が激しくぶつかり合うので、内気な私には似合わない競技だったかもしれません。でも、同じチームでプレーしていた友達に会うためにリンクに通っていました。
5年生になると、卒団した選手に代わって私がGKを務めることになったんです。そこから父のマンツーマン指導を受けることに。特訓の始まりですね。GKにとって重要なのは正しいフォームで、いち早く正確なポジションに入ること。それをめざして、スケーティングワークやエッジワークなどの基礎を教え込まれました。
──お父さんの教えで印象深いものはありますか?
「やるからには1番になれ」という言葉です。トップをめざすためには何をしなければならないのかを考え、それを積み上げていくような逆算の思考が身につきましたね。父のメンタリティーには大きな影響を受けたと思っています。
──厳しい練習を重ねて高校3年生で日本代表デビューを果たしながら、大学生の時に代表活動を辞退したのはなぜですか?
まずは、競技者としての将来性に不安を感じたからです。社会人になってもプレーを続けている先輩たちが、アルバイトを掛け持ちしながらなんとかやりくりしている姿を見て、そもそも競技と仕事を両立させる難しさを思い知らされました。
さらに当時は、日本がバンクーバー冬季オリンピックの予選で敗退した時期。オリンピックへの出場すらかなわない国で、代表選手として活動していく決断ができなくて。こんな中途半端な気持ちの私ではなく、もっと思い入れのある選手が代表に選ばれるべきだと思ったんです。
──紆余曲折を経て、代表チームに復帰したきっかけは。
代表から離脱して外からチームを見たことで、日本の現状や課題を客観的に捉えることができました。そんな中で徐々に、代表の一員として再びプレーし、チームに貢献したいという意欲が湧いてきたんです。
オリンピック完敗から奮起。日本人初の北米女子プロリーグ選手に
──2014年にはソチ冬季オリンピックに挑み、率直に何を感じましたか?
私にとって初めてのオリンピックで、「世界との差は点数差以上に大きい」という事実を突きつけられたように思います。正GKとして全試合に出場し、1点差の試合がいくつかあったものの、結果としては全敗。私自身、納得がいくプレーはできませんでした。
──最大の課題は何だったと……?
オリンピックという大会を具体的にイメージできていなかったことですね。日本はメダルを目標に掲げていたのですが、私にとっては「夢の舞台」のまま。目標をどのように達成するのか、明確な道筋を思い描けていなかったなと。国内での正GK争いを制して満足するのではなく、海外勢とどう競い合うかにもっと目を向けなければなりませんでした。
──その後、世界最高峰の北米で活動したのは、ソチの苦い経験が影響していますか?
その通りです。ちょうど北米に新しく女子プロリーグが発足するという時期で、自分の競技力をもっと高めたいと思ったんです。アメリカやカナダの代表選手とどこまで渡り合えるか、チャレンジしようと決めました。
──現地チームの入団テストに合格し、このリーグでは日本人選手の第1号に。トップクラスの選手たちから学んだことは?
彼女たちは、気持ちのスイッチを切り替えるのがとても上手でした。「今、得点しなければならない」「絶対に守らなければ」という大事な場面では集中して力を発揮する一方、オフの時には完全にリラックスしていて。多くの日本人選手は常にオンのままだと思いますが、心身の休息をしっかりとるのも大切なことだと気づかされました。
指導経験から多くを学び、プレーの選択肢が広がる
──けがとの闘いもありましたが、どう乗り越えてきたのでしょうか?
一番苦しんだのは、2018年の平昌冬季オリンピックの期間中です。肩の亜脱臼が起きて、動かすたびに痛みが走る状態でプレーしていました。
大会後、将来を見据えて手術に踏み切り、1年ほど戦列を離れました。次の北京冬季オリンピックに向けて、もちろん不安はありましたね。でも焦る気持ちを抑え、「今できること」を大事にしながら地道にリハビリやトレーニングを積み重ねました。1段階レベルアップした状態で北京を迎えようとイメージしながら、なんとか乗り切ることができた感じです。
──最近では指導にも携わっているそうですね。どんなきっかけからですか?
北京冬季オリンピックに出場した後、地元札幌のチームで選手として活動しながらコーチングも始めました。それは、日本全体で選手の育成が急務だと思い知ったからです。
代表チームの顔ぶれは、過去3大会であまり変わっていません。もちろん、これはメンバー自身の頑張りの結果ですが、同時にジュニア選手をトップ選手へと育てられていない証しでもあるのではないかと思います。なので、若手の育成に積極的に携わっていかなければならないと感じました。
──指導に関わる中で、選手として学んだことも多いのでは?
日々気づかされることばかりで、結果的に、選手としてプレーの選択肢が広がったように思います。
子どもたちにプレーの仕方を教える際、専門用語を使わずにかみ砕いて伝えるのが、意外と難しいんです。子どもたちからさまざまな質問を受けつつ、プレーの詳細を言語化するうちに、基本に立ち返って大事な動きをより意識できるようになりました。
次がラストチャンス。集大成の舞台で人々の心に残るプレーを
──競技を続ける上で大切にしているモットーがあれば、教えてください。
大切にし続けているのは、どんな場面でもしっかりコミュニケーションをとることですね。団体競技ではチームの誰か一人が違う方向を見ているだけで、プレーが一気に崩れてしまう場面があり、私もたびたび経験してきました。だからこそ、チーム全員で結束するために、若い選手に対しても積極的に話しかけるようにしています。
また、いつも心に抱いているのは、「報恩謝徳」(受けた恩に感謝し、報いること)という言葉です。日頃、周囲のサポートがあって競技を続けられていることに感謝し、プレーで恩返しできるように頑張っています。
とくに2015年の入社以来、デンソー北海道には多大なるサポートをいただいています。支援いただかなければ北米にも行けませんでした。忘れられないのは、2017年に北海道で行われた平昌冬季オリンピックの最終予選。多くの従業員が応援に駆けつけてくれて、その盛り上がりに驚きました。皆さんの大声援が私の背中を押してくれたからこそ、オリンピックの出場権をつかむことができたと思っています。
これからも感謝の気持ちを忘れずに、全力で競技に取り組み、恩返しがしたいです。
──オリンピックに3大会連続で出場し、第一人者として日本をリードしてきた藤本さんにとって、今後の目標は何でしょうか?
2026年のミラノ・コルティナダンペッツォ冬季オリンピックに出場することです。当初は前回の北京を集大成に位置づけていたのですが、けがが多くて不完全燃焼に終わってしまいました。日本代表入りを果たして、次のオリンピックでは最高のパフォーマンスを見せたいと思っています。
今、日本の状況を冷静に見れば、若手が台頭してきています。その中で35歳の私が代表メンバーに選ばれるためには、世界で戦えるレベルの選手だとパフォーマンスで証明するしかありません。2025年2月のオリンピック最終予選に向けて、経験値の高さを示しながら、一つひとつのスキルを着実に積み上げていきたいと考えています。
──最後にお尋ねします。もし今、お父さんから「1番をめざしなさい」と言われたら何をめざしますか?
誰からも「日本代表にふさわしい」と言っていただけるような選手になり、皆さんにとって、もっとも心に残る選手をめざしたいと思います。
これまで私は国内1番手のGKとしてプレーし、自分のスキルを磨くことで代表チームに還元してきたつもりです。その自負を胸に、4度目のオリンピック、ラストチャンスに懸けます。
※ 記載内容は2024年8月時点のものです
キャリア・生き方執筆:talentbook 撮影:BLUE COLOR DESIGN
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